今回のブログは医局が担当します。
投影性同一視の罪
“投影性同一視”という精神分析の用語があります。メラニー・クラインという精神分析家が初めて言及し、ウィルフレッド・ビオンが掘り下げた防衛機制です。これは、患者さんは自分自身の中にある受け入れがたい感情を他人に押し付けて、かつその他人を攻撃する、というもの。私たちはぐっと堪えて何とか他人に迷惑をかけない状態で消化しますが、いわゆる“境界例”の患者さんは自分というものが確立しておらず、自分と他人との区別が曖昧と言われます。そのため、消化するレベルに到達できず、未消化物を周囲に向けて吐き出してしまうのです。嫌なことをすべて相手に押し付けて自分を守る方法、とも言えるでしょう。
患者さんにさんざんな物言いをされて、治療者は不愉快極まりない感情を抱きます。これらを「患者さんは患者さん自身を嫌っているんだ。でも自分というものが曖昧だから、抱えきれずにこちらに投げ入れてくるんだ」と思うことができたら、それは楽でしょう。しかしそれは、“病理は患者さんにあり”と断定していることと変わりありません。裏を返せば「私は健康だ(病理を一切有していない)」と宣言しているようなもの。そして、その“投影性同一視(と判断した現象)”をヒントに治療者は境界性パーソナリティ障害だと“診断”すらしてしまいます。これはまさに二分法であり、“あなたと私の感情は別のもので区別できるのだ”という前提に基づいています。この投影性同一視という概念は便利なだけに、一歩間違うと非常に暴力的である、と私は思います。治療者自身に問題があってもそれを認めず「患者さんの投影性同一視だ。ボーダーだからな」と考えてしまうでしょう。「問題は患者さんであって私ではない」ということなのです。これを乱用してしまう危険性は指摘してもし足りません。果たして、精神科医にその自覚はあるのか。このような挑戦的な問いを突き立てることは、決して暴論ではないのです。患者さんを境界性パーソナリティ障害と見立てて接していると、不思議なことに患者さんは境界性パーソナリティ障害のように振る舞うようになります。これは医原性の境界性パーソナリティ障害としか言いようがありません。言葉と振る舞いの持つ力と残酷さがそこにはあります。