今回のブログは医局が担当します。

転移と逆転移:二分法の限界

精神科の界隈では、転移と逆転移という用語があります。多くの人がそれぞれの意味合いで言っており、統一された定義は(おそらく)ありません。転移は患者さんが生活史で得た様々な無意識的な反応を治療の場に持ち込むことであり、逆転移は患者さんの転移に対する治療者の無意識的な反応、と一般的に言えるでしょうか。本書の対話ではもう少し広い意味合いで、それぞれの人生体験と診察室の中での関係性も含めた応答を転移/逆転移と言っています。

しかし、臨床の場で「これは転移だ」や「今のは逆転移だ」と判別はできない、と私は思っています。転移と逆転移を分けることは、治療者の主観が患者さんの主観から区別でき、しかも対象化してとらえられるという前提が働いています。転移と逆転移を“取り出せる”ことを前提としているのが理解できるでしょう。感情や思考の過程は非常に複雑であるにもかかわらず、です。そして、逆転移という言葉は逆(counter)という言葉から分かるように、転移に対立するという意味を持ちます。お互いの主観が区別できるうえに、問題の中心は患者さんにあるのだと言っていることになるのです。主体と客体、外と内、見るものと見られるもの、このようなデカルト的二分法は単純に過ぎます。“思うこと”はorganizedではなく、organizingなのです。止まることなく、常に人と人とのあいだでダイナミックに動き組織されており、この瞬間もその動きを止めることはありません。

よって、二分法を超える必要が私たちにあります。転移と逆転移を区別することは不可能であり、まずはそれを認めるところから始めるべきでしょう。診察室の中で生じる現象を、患者さんもしくは治療者の心や過去が原因だと決めつけてはいけません。何らかの客観的真実があるという前提は捨て去るべきです。何かを解釈して仮に患者さんがいたく納得しても、それは2人で共有されたフィクションであり主観的な物語に過ぎません。分類不可能であることを認識し、生じた現象を虚心坦懐にとらえようとする姿勢が求められます。何が転移で何が逆転移なのかを区別することはできないのです。換言するならば、患者さんと治療者との関係は不可知性を帯びているのです。患者さんは私とは異なる文脈に生きている存在であり、十全に理解することはできないのです。

二分法は悪魔の囁きにも似ており、どちらかに問題があるという前提の発言は、患者さんとそして自分自身も服従させようとしてしまうでしょう。患者さんが治療者に反発したら、その時点で患者さんは病理を持つと判断してしまう愚にも至りかねません。私たちは二分法を捨て、超えられない状況の中で理解不可能性に身を預ける覚悟を持つことも必要です。理解しようとする姿勢が重要であることは言うまでもありませんが、理解しきれると考えるのは、とてもおこがましいことです。理解できないところを認め、常に動いている関係の中で患者さんと向き合い続けようとする勇気を持たねばならないのです。