今回のブログは医局が担当します。

自閉症の自閉と統合失調症

ブロイラーの“自閉”

“自閉”を最初に述べたのはブロイラーですが、彼の“自閉”は、外界との接触が乏しくなり、その人の内面生活が優位となり、現実と離れてしまう現象を指します。「自閉って“自ら閉じる”だから、なんだか周囲をシャットアウトして引きこもってじっとしているんじゃないの?」というような、非常にネガティヴな印象があるかもしれません。しかし、決してそうではなく、ブロイラー自身がこの自閉は正常者の睡眠や白昼夢、神話や迷信、そして詩にまで見られると述べています(『精神分裂病の概念―精神医学論文集』)。もちろん、本質的には違うだろうと但し書きを付けつつも、区別はできないとも言っているのです。

ミンコフスキーの“自閉”

さらに、ミンコフスキーは自閉を“貧しい自閉 autism pauvre”“豊かな自閉 autism riche”とにわけ、自閉と言ってもいろんな自閉があるのだと示しています(『精神分裂病』)。こういった点を踏まえて、また最近の研究を考慮すると、自閉症というのは他者との関係を築けずに閉じこもるような状態では決してなく、彼らの中には色彩豊かな世界がありながらも、いわゆる定型発達者と同じような方法で共有する自発的な意図を持たないのだ、と言えるのではないでしょうか。彼ら独自の方法で世界を示しているのかもしれませんが、私たちのほうがそれをキャッチできずに「あぁ、自閉だな」と言って接近を放棄してしまっているだけの可能性だってあるのです。であるならば、彼らからは私たちの態度のほうこそが“自閉”に映るでしょうね。

カナー~ベッテルハイムの“自閉症”

カナーは1943年の報告で生来的であることを強調してはいましたが、いっぽうで患者さんの両親については、「暖かい心をもった親は少なく、科学や文学、芸術などにとらわれていて、結婚生活も冷たく形式的である」という内容を同じ報告の中で述べており、ちょっと態度が揺れているような感じを受けます。そのためか、また1950年代のアメリカは精神分析が波に乗っていた時期でもあったことが重なっているでしょう「親の性格や養育態度が自閉症の原因である」という説が出現しました。その旗手が、上述したベッテルハイムですね。彼の著書『自閉症・うつろな砦』では、自閉症を引き起こす原因が「子どもはいなくなるべきだ」という、母親の無意識の願望であると述べられています。さすがに極論なのですが何と大流行してしまい、多くの親を自責感と罪悪感の中に叩き込み、また自閉症の子どもには間違った療育が施され、彼ら彼女らには苦難の時代となったのでした。1970年代には廃れて、その反動によるものか1980年代には医療者の中でタブー視されるほどになったのです(誤解のないように言っておきますが、「親が原因だ!」というのは今ではキッパリと否定されている考えです)。

精神分裂病群との関連

また、カナー自身は、精神分裂病群(現在で統合失調症と呼ばれるものの多くの事象)との関連を不明瞭なままにしていました。ブロイラーの表現を引っ張ってきているところからすると、先に述べたように「精神分裂病群のひとつなのかも…」と考えていたようにも思えますし、1949年の論文でも連続性を想定していたのかもしれません。そしてカナーより後の研究では、自閉症は超早期の統合失調症なのではないかという説が広く行き渡っていたようです(Am J Orthopsychiatry. 1947 Jan;17(1):40-56.など)。しかし、小児期発症の統合失調症と自閉症とでは、男女比、認知パターン、発症時期、症状の違いなどがラターやコルヴィンにより指摘されて以降、自閉症の統合失調症説は1970年代に廃れていきました(J Child Psychol Psychiatry. 1968 Oct;9(1):1-25. や Br J Psychiatry. 1971;118:385-495.)。統合失調症と自閉症との違いで私たちが大事にしたいのは、統合失調症では“仮りそめ”ながらも共同世界への参入が獲得された後にそこから撤退するのに対し、自閉症ではその共同世界への参入が一歩遅れる、もしくは最初から別の世界があり、そこから私たちを眺めるという違い。それはカナーが1943年の最初の報告で既に述べており、「精神分裂病的な人が、彼がその一部分であり、また接触してきた世界から踏み出すことによって自分の問題を解決しようとするのに対して、われわれの子どもたちは、初めから完全に局外者であった世界に、用心深く触手をのばしながら、しだいに歩みよってゆく」のです。