今回のブログは医局が担当します。

了解とはなにか

今も昔も解釈が難しい“了解 Verstehen”について、2回に分けてお話しします。大きく分けて静的了解と発生的了解の2つがあるのですが、ここでは後者を扱いましょう。これは精神病理学の巨人であるヤスパースが定義した分類のための方法であり、彼の『精神病理学原論』では、このように言われます。

ある場合には精神的なものが精神的なものから、はっきりそうとわかるように、明証性をもって出てくることをわれわれは了解する。われわれはこのように精神的なもののみにありうる様相で、攻撃された者は怒り、裏切られた恋人はやきもちをやくことを了解し、動機からこうしようという決心と行為が起こってくることを了解する。

「??」という文ですが、これは相手の話を「ふーむ」と聞いていると、「あ、そういうことですね」とストンと分かって、「それはあなたにとって自然な考えですね」と実感できることが“明証性をもって出てくること”という意味だと考えていいでしょう。古茶大樹(こちゃひろき)先生が強調するように、“了解”とは、聞く側の自分が納得できるかどうかではなく、自分の価値観を脇に置いて、患者さんのことをよく理解したうえで、患者さんのある心の状態がその前の心の状態とすんなりつながっているなと気づくことなのです(『臨床精神病理学 精神医学における疾患と診断』)。ここでのポイントは、聞く側の価値観で“了解できるかどうか”を決めないというところでしょうか。あくまでも患者さんの方に身を置いて、感情移入をして、「あぁ、それはあなたらしいですね」と言えるような感じなのです。“了解”という言葉だとちょっとその辺りが伝わりにくいため、シュナイダーが採用した“生活発展の意味連続性”のほうがしっくり来ると思います。この生活とは、患者さんの生活であるのは言うまでもありません。“生活発展の意味連続性”の意味は、言葉の示す通り、患者さんの生活において心の動きが意味あるものとして連続していること、です。“了解不能”はこの“生活発展の意味連続性の切断”であり、シュナイダーの定義する精神病の診断根拠とされます。精神病では、患者さんの精神生活の中に、全く異質な精神生活が突如として割り込んでくるのです。そう、連続性が途切れるわけですね。「切断・断裂はその患者さんの連続した心理では生じないものでしょう? ということは、それって“疾患っぽい”って言いたくなりませんか?」という論なのです。逆に、“了解可能”や“生活発展の意味連続性の保持”がなされているのであれば、“心の性質の偏り”になるのです。例えば“神経症”は、この偏りに含まれます。いわゆる“正常”との質的な違いか量的な違いか、とまとめられるでしょうか。

これは、かなり難しいことを要求している、と私は思います。数回の診察で了解可能か不能かを判断はできないのではないか? 患者さんの情報を十分に集めて、生き生きとしたものを頭にめぐらせないと“了解不能”と早合点してしまうのではないか? と考えてしまいます。“了解不能”としてしまうと、診断は精神病の範疇になります。後々になって患者さんから語られたことによってピースが埋まり「あぁ、そういうことだったのね」となれば、了解可能ということで、診断は精神病から外れて心の性質の偏りの範疇になります。「うーん、それでいいのか?」と考え込んでしまいますね…。逆に、精神病と考えていたけれども、患者さんが治らない理由を色々と考え出して、例えば人間関係にそれを求めて「これが原因だと思うんです」と述べた(創り出した)とします。そうすると、今度は“了解可能”の早合点が生まれてしまい、本来は精神病のはずが心の性質の偏りの方に診断変更されてしまう可能性もあるでしょう。ヤスパース自身も、これらの区別は時に極めて困難であると述べており、さらに、了解は完全な情報に基づいて遂行されるべきであるとも記述しています。情報があまり得られていない時、根拠不十分なまま了解関連の存在を推定することを“解釈 Deuten”と定義しています。私たちが普段の臨床で“了解”と呼ぶのは、正確には“解釈”なのでしょうね。でも了解に必要な“完全な情報”というのは、もはや無理では…(もちろん、普段の臨床でも診断がすぐにつかないこともとてもとてもとても多く、その時は診察を重ねて詰めていかざるを得ません)。